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とってもハードなトルコ10日間ツアー




トルコ地図

日 程 午  前 午  後 宿泊等  
第1日目 高知 ~バス~ 関空 関空着 24:20関空発 機中泊
第2日目
午前午後
ドーハ経由 11:30イスタンブール着 [世界遺産]イスタンブール歴史地域観光 トプカプ宮殿 タクシム広場 イスティクラル通り イスタンブール泊
第3日目
午前午後
ダーダネルス海峡 フェリーでアジア側に上陸 [世界遺産]トロイの古代遺跡観光 アイワルク又はエイドレミット泊
第4日目
午前午後
古代都市エフェソスへ移動 エフェソス観光(エフェソス遺跡、アルテミス神殿跡) 革製品店 パムッカレへ移動 パムッカレ泊
第5日目
午前午後
[世界遺産]パムッカレ観光(ヒエラポリス遺跡、石灰棚、パムッカレテルマル) コンヤ市内観光(メヴラーナ博物館、インジェ・ミナーレ神学校) コンヤ泊
第6日目
午前午後
カッパドキアへ移動 キャラバンサライ見学 カッパドキア観光(カイマクル地下都市、ウチヒサール、スリーシスターズ(ウルギュップ)、鳩の谷、アヴァノス)など カッパドキア泊
第7日目 自由行動
(オプション)バルーンツアー、ギョレメ野外博物館観光
[世界遺産]カッパドキア観光(ゼルベ(バシャバー)、ラクダ岩(テレベント岩)、クルチュラル谷) トルコ石店 アンカラエクスプレス1等車でイスタンブールへ 車中泊
第8日目
前編後編
[世界遺産]イスタンブール歴史地域観光(ブルーモスク、アヤソフィア大聖堂、エジブシャンバザール、シルケシ駅)など 自由行動
ボスフォラス海峡クルーズとルステムバシャモスク観光(オプション)
イスタンブール泊
第9日目 イスタンブール ドーハ経由   機中泊
第10日目 16:30関西国際空港着  

<日付をクリックするとそのページが開きます>

旅行会社などによる旅行基本情報
○10月、11月の気候
 四季で言えば秋です。10月、11月の気温は東京より2、3度低いぐらいで、そう変わりません。内陸では昼と夜の気温差が大きいので、防寒着が必要だそうです。
 10月の雨量はそれまでよりも少し増えるとはいえ、東京の163mmに比べ半分以下の70mmですし、11月は東京並みの84mmで、一番多いのが12月の106mmですから、あまり多くはありません。
○通貨
 単位は2008年末まで新トルコリラ(YTL)でしたが、2009年から新通貨となり単位はトルコリラ(TL)になりました。
 紙幣は200、100、50、10、5TLの6種類で、硬貨は1TL、50、10、5、1Krs(クルス)の6種類です。
 日本では円からTLへの両替はできないので現地の空港や銀行、ホテルなどでする。
 なお、日本から持って行くのはEUROかUSDがお薦め、国際キャッシュカードのATMは各地にあるのだそうです。
 為替レートはここですが、2011年10月21日には1トルコリラ=41.54円でした。
○電源
 電圧は220ボルト、50ヘルツの交流。プラグは2本脚のCタイプ。
○水
 ミネラルウォータが安心。500mlで0.5トルコリラ程度。レストランなどでテーブルに置かれているのは水道水なので飲まないように。
○服装
 イスラムの国なので女性は肌の露出の多い服装は控える。特にモスクでは注意。
○撮影
 モスクや軍事施設、空港、鉄道、橋などは通常撮影禁止。スカーフをしている女性にもカメラを向けない。
○外務省の海外安全ホームページのトルコ>スポット・危険情報を確認。

スーツケースの内容物 ショルダーバッグ
衣 類 薬品・衛生等 そ の 他
下着、Tシャツ 風邪薬 変換プラグセット 小型懐中電灯
パジャマ 胃腸薬 テーブルタップ カットバン
替えズボン 目薬 海外用携帯電話セット ポケットティッシュ
長袖シャツ ウェットティッシュ デジカメ充電器 パスポートのコピー
パーカー ポケットティッシュ 眼鏡(予備) メモ帳+シャーペン
ベスト タオル(大、小) タバコ5箱 デジカメ(+充電器)
セーター 電気カミソリ 携帯傘 予備の電池とメモリー
水着 歯磨きセット 軽雨合羽 ガム、携帯灰皿等
ヘアブラシ 電圧切替式ドライヤー 帽子(+眼鏡予備)
消毒薬(キズ薬) たばこ&ライター
携帯電話
薄型電卓
折り畳み手提げ袋
    (パスポートと旅行カバンのキーは肌着の下に)

 温泉での入浴の可能性があるので水着も加えました。
 初日はロストバゲージになった場合に備えて、充電器と眼鏡はショルダーバッグに入れておきます。一日分の下着なども入れておいた方がよいとのことですが、今回は余裕がないので入れません。
 出発日は曇りのち晴れの予報です。
 ツアー料金は約13万円です。全部の食事がついています。

事前学習
◎トルコの地理http://www.shinytravel.com/jp/index.html)この「シャイニートラベル」はトルコの旅行社のようです。まだHPの日本語訳が一部完成してないようですが、現地の感覚が入っているようで気に入ったので紹介します。

 トルコ(トルコ語でトゥルキエ)は、トルコ共和国として一般に知られており、トルコ共和国は南東ヨーロッパのバルカン地域では西アジアとトラキア(ルメリア)のアナトリア半島全体に広がるユーラシアの国です。北西にブルガリア、西にギリシャ、北東へグルジア、アルメニア、アゼルバイジャン(ナヒチェバンの飛び地)、そして東にイラン、イラクとシリア南東へ​​:トルコは8カ国と国境を接しています。キプロスのある地中海が南に、エーゲ海が西に、黒海が北に位置しています。アナトリアとトラキアを分離するのはマルマラ海とボスポラス海峡です。、それは一般にアジアと欧州の境界を区切るとみなされており、トルコが大陸にまたがっているのはこのためです。
 二つの大陸にまたがっているという戦略的な位置から、トルコの文化は東洋と西洋の伝統の独特なブレンドを持っています。西の欧州連合(EU)、東の中央アジア、北のロシア、南の中東内で強力な文化的、経済的影響力を持つユーラシア大陸での勢力的な地理的状況により、トルコは戦略上重要な意味を持つようになりました。
 先進国トルコは、第一次世界大戦の余波で崩壊したオスマン帝国に続いて、ムスタファ・ケマル・アタチュルクのリーダーシップの下で1923年に設立された民主的、世俗的な、単一の、憲法上の共和国です。それ以後、東世界との関係を促進しながら、次第に西世界に統合してきました。


トルコの7地方7地方の地図はここWikipediaより)
マルマラ地方
 マルマラ地方は、バルカン半島とアナトリアの間の通路を形成しています。ヨーロッパとアジアはこの地方で相互に接続されています。それは67000平方キロメートルの表面積を持ち、国土の8.5%をカバーしています。それは同じ名前を持つ内部海に由来し、完全に陸で囲まれ、海峡を通じて黒海とエーゲ海に接続されています。エーゲ海沖の外洋に位置するボズジャアダ島と​​ギョクチェアダ島(イムロズ島)の島々もまたマルマラ地方に位置しています。
 マルマラ地方は、東に黒海と中央アナトリア地方、南にエーゲ地方、北西にギリシャとブルガリアに囲まれています。マルマラ地方は、他地方と違って地方境界とあまり接触していません。エディルネ、クルクラレリ、テキルダー、イスタンブール、コジャエリとヤロバの県は、完全に地方の境界内です。サカリヤ、ビレジク、ブルサ、バルケシルとチャナッカレの県の一部の土地は、エーゲ海地方と黒海地方の境界内に位置しています。

エーゲ海地方
 トルコの西部海岸線がめでる青い海はエーゲ海として知られており、その地方もその名が与えられています。これらの土地は、かつて多くの偉大な文明、帝国、国家の誕生した地でしたが、そこから世界最高級の数学者、科学者、建築家や彫刻家を生み出しました。
 エーゲの山々は肥沃な平野を横断し、温暖な気候を確保しつつ、海へ垂直に降りていきます。かつてここに住んでいた人々は農業や商業に従事しており、それにより一定の繁栄を築きました。彼らは、美しい都市やモニュメントを建設し、農業と建設の両方の新しい技術を開発しました。野外博物館のように広がる地域の遺跡を今日さまよう訪問者は、この土地がかつて感動的な賞賛と魅力を振りまく文明の発祥地であったと、時代を超えて感じることができます。実際、トルコのエーゲ海と地中海沿岸では古代の遺跡やモニュメントの世界で最も豊富なコレクションを網羅しています。この地域は現在トルコで第二の発展地であり、この地に住む人々は自然の恵みを受け続けています。内陸の都市も近年著しい成長を遂げています。

地中海地方
 トルコの南海岸は世界で最も美しい地方のひとつです。年の8ヶ月間泳げる海がある砂浜、壮大な風景や多数の史跡があります。
 トーロス山と海の間に100〜200キロ幅のベルトに沿って繰り広げられるこの地域は、歴史上商業関係と政治的対立の相互関係の焦点となってきました。昔からこの地域は多人口都市を生み出し、豊かで繁栄した地域でした。世界貿易における地中海の重要性の減少、 地震による被害、水路の劣化とマラリアの拡大により衰退の時代がありました。肥沃な平野は放棄され、遊牧民の冬営地と変わらなくなりました。最近十年間にこの地域は、商業的農業と観光業の発展によりかつての重要性を取り戻しました。
 東地中海沿岸の大都市アダナ、メルシン、タルスス、イスケンデルンとアンタルヤはすべて開発され急速に拡大しています。壮大なトーロス山脈の山頂は、冬同様に夏も雪で覆われており、中央アナトリアの南部国境を形成し、地中海の海岸に沿って東に向かって延ています、。これらの山脈の南には、長い白い砂浜、松林に囲まれた湾や入り江、ターコイズ色の海があり、これによりトルコの最も有名な観光リゾート地のこの一つになっています。しかし観光産業が唯一の経済活動ではありません。その温暖な地中海性気候のおかげで、この地域は豊富で豊かな農業を持ち、柑橘類、バナナ、アボカド、綿花、野菜や花を生成しています。

中央アナトリア地方
 黄色の麦畑、初期火山と無限の草原により、アナトリアの高原は厳格な風景を生み陀出しています。しかしこの歴史を見ると、情緒的なエピソードを持つ豊かな千年が明らかになります。
 国土の中心に位置することから、この地域は主要な交易路の歴史的なジャンクションであり、人と国家の移動交差点となっていました。
 古代の二大超大国は、エジプトと中央アナトリア地方に出現したヒッタイト帝国でした。ヒッタイトは、彼らが生み出した文明によってだけでなく、彼らが発展させた国家構造と人権に対する寛大な敬意によって特徴があります。
 歴史を通して、アナトリアの草原は、統治権を求める強力な軍隊間の戦いを目撃してきました。ティムール人だけでなくアレキサンダー大王の侵略にもあいました。
 セルジュークトルコはその顕著な建築と装飾芸術を通じて中部アナトリア地方にその足跡を残しました。最近の歴史では、独立闘争がここで開始され、最初の国際会議がトルコとその地域のランドマークであるアンカラで開かれました。 ついに数千年の乱の後、中央アナトリアの平和と安定を達成されました。現在、首都アンカラとその他成長著しい都市を含むこの領域は、急速に先進世界に追いついています。

黒海地方
 トルコの北海岸と平行に走る山脈は、黒海とアナトリアの台地の間にまさに壁を建てています。トルコのこの地域の地理的な形成は、手の指のような中央高原から山の尾根が放射する西部アナトリアとは全く異なっています。ここでは、単一の範囲が海岸に包んでいるも同然で、両間は50キロも離れていません。河川は。その範囲内の割れ目が水の逃げ場を作るまでは、地形と海岸に平行な流れに一致しています。
 黒海の山脈を越えると、突然密集した森林と植生と花の世界、ハンノキ、ライム、クルミ、ニレ、ブナや栗の木からなる豊富な群葉に遭遇します。都市、町、村は、狭い沿岸の土地に沿って圧迫されています。それは、地域の住民の精神とユーモアの自己を卑下した感覚と戦う彼らの気性、頑固さが理由かもしれないです。
 それにもかかわらず、これらの沿岸の土地は肥沃です。地域のヘーゼルナッツの生産は欧州市場への供給の主要な源であり、トルコで消費される実質的にすべてのお茶はここで栽培されています。その地理的な特異性と激動の歴史から、多少異なる面白い文化は黒海地域で浮誕生しました。黒海の住民の活気に満ちたエネルギーが音楽のリズムとそのダンスの遊び心の動きに反映されています。

東アナトリア地方
歴史が記録される最も古く、最も顕著な文明のいくつかは高い山々と高原に覆われた険しい地域東部アナトリアで生まれました。トルコのこの地域の標高は1600メートルから始まり、アララト山山頂の5165メートルに達します。当然のことながら、ここに住む人々は、彼らが占める支配的な地位を認識しています。彼らはそれを"世界の屋根"と呼んでいます。このような高さと荒れた土地のため、冬は長くて寒いです。その厳しい気候が苦難を与える一方、自然は豊富な資源を寛大授けました。トルコだけでなく近隣諸国にも豊饒をもたらす河川はこの地域に源を持ちます。北方に流れるクラ川、アラス川、チョルフ川、、および湾のバスラ南で海に達するユーフラテス川とチグリス川は、水の巨大なボリュームを移動する強力な河川です。ダムと水力発電所の建設に見事に役立っています。


◎トルコの歴史http://ashita.yu-yake.com/asia-history/turkey-history.htm)「健全な生活」というタイトルのHPで、トルコの歴史とは関係なさそうでしたが「アジアの言葉の研究」の中にアジアの国々の歴史をまとめていますというリンクがありました。短く的確にまとめている感じがしましたし、日本との関係というコーナーもあり、気に入りましたので紹介します。

  トルコは歴史的遺産の宝庫です。東洋文化、西洋文化の境界において、数多くの歴史が刻まれています。

 新石器時代にあたる、紀元前6500年には、チャタルヒュユックに最初の集落が作られました。人々は、日干し煉瓦の家で生活していたそうです。
 紀元前3000年頃には、エーゲ海沿岸のトロイに都市が築かれました。遺跡を発掘したのは、有名なシュリーマンです。
 紀元前1500~1400年前には、アナトリア地方にヒッタイト文明が、栄えました。国力の源となったのは鉄器であり、その製鉄技術は、国外不出とされていました。ヒッタイトは首都をハットゥシャシュにおきました。紀元前13世紀には、当時の強国エジプトと戦うほどの強国でしたが、紀元前1200年頃には、トラキア人の侵入により滅ぼされてしまいました。
 その後は、小王国が分立します。

 紀元前6世紀半ばに、アナトリア一帯はペルシア帝国の支配下に入りました。
 この強大なペルシア帝国も、紀元前334年、マケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされました。この時に、ギリシア世界とオリエント世界が文化的に接触し、ヘレニズム文化が生まれました。
 アレキサンダー大王亡き後は、アナトリア西部に、ペルガモン王国などの小国家が誕生しました。ペルガモン王国はギリシャ文化を受け継ぎ、国内に数多くの神殿や劇場を建設しています。

その後、紀元前30年頃までにアナトリアの小国はローマ帝国の支配下に置かれます。4世紀始め、ローマのコンスタンティヌス帝は、帝国の首都をビザンチオン(今のイスタンブール)におき、首都名をコンスタンティノープルと改名しました。
 395年に、ローマ帝国が東西に分裂した際、コンスタンティノープルは、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都となりました。
 この帝国は、エジプト、シリアからイタリア、スペイン南部にまで勢力を伸ばし、コンスタンティノープルにはギリシア正教の総本山が置かれました。
 一方、552年に突厥(トッキ Turkey)王国を樹立したトルコ民族の源流が、モンゴル高原より8世紀後半に西進を開始します。

 10世紀にはイスラム教に改宗し、東は中央アジア、西はアナトリア地方まで勢力を伸ばし、1037年にセルジューク・トルコ王国を成立させました。しかし、1200年代後半のモンゴルの侵入によりセルジューク・トルコは弱体化しました。

 そうした中で、オスマン(1258~1326年)に率いられた、西アナトリアのオスマン・トルコは次第に勢力を伸ばしました。
 1453年、コンスタンチノープルは占領され、ビザンティン帝国も滅亡しました。オスマン・トルコは文化的絶頂期を迎えます。
 その支配は、バルカン半島、東ヨーロッパ、西アジア、そして北アフリカまで拡大し、約200年、繁栄が続きました。
 しかし、18世紀に入ると、ロシアとの戦争を契機にオスマン・トルコは衰退を始めます。支配下にあった、ギリシャが1829年に、ルーマニア、ブルガリアが1878年に、エジプトも1839年にトルコより独立しました。20世紀に入っても、 アルバニアとマケドニアが支配下から脱しました。
 さらに、第一次世界大戦、ドイツ側についたオスマン・トルコは、連合国側に敗北し、シリア、パレスチナ、イラク、アラビア半島を失います。トルコの大部分を占めるアナトリア地方は、ギリシャ、イタリア、フランス、ロシアに分配され、ほとんどの領土を失いました。

 このような苦しい状況の中、立ち上がったのが、今日、建国の父とされるムスタファ・ケマルでした。陸軍将官であったケマル率いる国家軍は、強力な武器を所有するフランス、イタリア、ギリシャ等の国々と、少人数で満足な武器も無い中戦い勝利しました。
 オスマン・トルコも崩壊し、トルコは国家として承認されます。
 ケマルは、トルコの近代化を目指し、政教分離など数々の改革を実施しました。1923年には、トルコ共和国を建国されました。
 初代大統領に就任したケマルは、教育の統一化、名字の使用、衣服の西洋化、西暦制、計量単位を導入します。
 言語はアラビア文字からラテン文字へ変更しました。また、一夫一婦制の導入、女性権や女性選挙権に至るまで、次々と西洋的な制度を導入し、様々な分野で改革を行いました。
 1952年には、トルコはNATOに加盟しました。さらに、1999年には、EU候補国になりました。けれども、国民の9割以上がイスラム教徒であること、また、国土の大部分がアジアに属するなど、加盟に対し反対意見もありました。ようやく、念願が叶ってトルコは2013年からEUに加盟することが正式に決定しました。

「国内に平和を、世界に平和を」をモットーに、発展を続けているそうです。

<日本との関係>

 エルトゥールル号遭難事件をご存知でしょうか。
 1890年(明治23年)、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦であるエルトゥールル号が、和歌山県、串本沖で遭難した事件です。
 住民たちは、献身的に、総出で救助と生存者の介抱に当たり、この事件が、日本とトルコの友好関係の起点となりました。
 日露戦争の時は、トルコもロシアの南下に悩まされていた時で、黒海を出るロシアの艦隊の動きを日本に知らせたということです。
 日本海軍の英雄、東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を子供につけることが流行したとか。
 1985年、イランイラク戦争の時には、イランの首都テヘランには215名の日本人が取り残されていたそうです。
 イラクから、航空機の撃墜予告が出ていた為、どの航空会社も救出を拒みました。けれども、トルコ航空だけが、イラクの対空ミサイルにさらされながら、テヘランへ日本人救出に向かったそうです。日本人の救出後、日本人がいた地区は攻撃されました。
 危機一髪でしたが、エルトゥールル号遭難事件から、100年経ったときでも、その友好関係は変わらなかったということだそうです。

参考にしたホームページ
トルコ観光局
トルコってどんな国?(ファインダー越しに見たトルコ旅紀行)
トルコの地理学(写真と旅行)
MY TURKIYE
トルコの基本情報(地球の歩き方)
トルコの歴史(Wikipedia)
トルコの歴史(健全な生活)
トルコの歴史をちょっと勉強(シエナの旅)
トルコ共和国の歴史(忘却と悠久の館)


その他旅行記など
トルコ旅行記-世界遺産を巡るトルコ10日間ツアー旅行記-
イスタンブール写真館
旅のフォトギャラリー
のぶなが 我が人生
潮風の中で~クルーズと町歩き・覚え書


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