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第8日目−1

 10月30日  アンカラエキスプレス(ハイダルバシャ駅) − ボスフォラス大橋 − イスタンブール観光:ブルーモスク、アヤソフィア大聖堂、ヒポドゥローム、エジプシャン・バザール、オリエント急行の終着駅シルケジ駅 午後自由行動 (イスタンブール泊)    

事前学習
アンカラエキスプレス(海外の鉄道風景集)
・トルコ最大の都市・イスタンブールと、首都・アンカラを結ぶ路線は、トルコ国鉄(TCDD)で最も重要な幹線となっており、毎日、昼夜合わせて7〜9往復の客車列車が運行されています。今回紹介するのは、この区間で唯一運行されている寝台特急「アンカラ・エクプスレス」。イスタンブール〜アンカラ間を約9時間30分で結んでいます。
ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク(Wikipedia)
・イスタンブールを代表するモスクです。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建設されました。
・世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれます。
アヤソフィア大聖堂(Wikipedia)
・アヤソフィアは、元来キリスト教の大聖堂です。最初の聖堂は360年、首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に、コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって建立されました。その後、争乱により2度焼け落ち、次に再建されたものは設計、施工のミスによりドームが安定せず、修復を繰り返しました。
・東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価されます。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても一部を改造しただけで、第一級の格式を誇るイスラム教のモスクとしてアヤソフィア・ジャミィと呼ばれ利用されました。
・1934年に、ムスタファ・ケマルによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され、1935年には正式にトルコ共和国の博物館に改められ、以来一般に公開されています。
ヒポドゥローム(イスタンブール写真館)
・ヒポドゥロームとは「競技場」と言う意味です。ローマ時代の203年に創設され、コンスタンティヌス帝によって拡張されました。ローマ・ビザンチン時代は馬に引かせた戦車の競技が行われ、また、外国使節の接受や凱旋式、敗戦国の投降式といった行事の会場にもなりました。
オリエント急行(Wikipedia)
 オリエント急行の起源は国際寝台車会社(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行がはじめられたパリ - コンスタンティノープル(イスタンブル)間の列車(当時は一部船舶連絡)です。その後、西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになりました。西ヨーロッパ側の起点はパリのほかフランスのカレーやベルギーのオーステンデなどがあり、バルカン半島側の終点はイスタンブルのほかギリシアのアテネやルーマニアのコンスタンツァ、ブカレストなどがありました。
 これらの列車は第二次大戦後航空機の発達や東西冷戦などの影響で次々と区間短縮や運行が廃止されていき、今では時折企画された観光用が走るのみです。


イスタンブールにて



6:33 食堂車です。ガイド本では、トルコ国鉄が誇る最新鋭の客車が投入されているとの
ふれ込みですが、サービスはいまいちです。
朝食で、コーヒーは1杯だけですが紅茶はおかわりができます、と言いわれていたので紅茶を
選んだのですが、そのつもりで2杯目を頼むとどういうわけか拒否されてしまいました。


列車での朝食です。トマトとキュウリがあったので、まあまあ気分良し。


窓ガラスは国旗の月と星の部分が曇りガラスで表されていました。


駅のホームはそれぞれの人生がわずかですが感じられますね。


楽しそうに会話しています。


7:17 イスタンブールのハイダルパシャ駅に着きました。


アンカラエキスプレスのプレートです。


隣のホームにはアナドールエクスプレス号が停まっていました。


7:22 私たちの乗って来たアンカラエクスプレス号の先頭機関車です。


アンカラまでのバスとは違うバスが迎えにきていました。


魔除けのメデューサの目がありました。


イスタンブールの東岸から西岸へボスフォラス海峡をわたります。つまりアジア側からヨーロッパ側へ。


7:46 今渡ってきたボスフォラス大橋です。向こうがアジア側です。


ここも国旗がにぎやかです。


いくつものモスクのドームが見えはじめました。


8:10 ヒポドロムに到着です。別のツアーもガイドさんの説明を受けています。

ローマ皇帝コンスタンチヌス1世は330年にコンスタンティノポリスを首都としました。
代々の皇帝はこの町を装飾し、神殿やスタジアムを建てましたが、
反乱が繰り返されそのたびに修復してきました。


ヒポドロム(競馬場)跡の公園にある「ドイツ人の噴水」です。


別の場所でも見ましたが、ツートーンのカラスでしょうか?


オベリスク(テオドシウスの石碑)です。

紀元前1500年頃、エジプトのトトモス3世のために神殿前に
建てられていたものをコンスタンティヌス1世がエジプトの
アレキサンダー王国から搬入させたものです。
実際には390年頃皇帝テオドシウスの時代に搬入、
建立されたのではないかといわれています。


もとは3つの頭があったという「蛇の柱」です。
コンスタンティヌス1世がギリシアから搬入させたものです。


コンスタンティヌス・ポロフィロゲニトゥス
の石柱です。(オルメストゥヌ)


8:30 スルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)の内庭の門です。


内庭を囲んでぐるりとドーム屋根の付いた廊下が巡らされています。


大きなバルコニーが3段もついたミナレットです。
通常は4本以下ですが、ここは6本あります。


ここで靴にビニールカバーをかけて入りました。


最初は外に比べて暗いので目が慣れません。ランプの明かりだけが強く見えます。


上を見ると明るく、息をのむような美しいドームです。青いタイルが輝いています。


周囲にも美しいドームがあります。
周囲のタイルも青、水色、緑などのタイルですが、ランプの光が黄色いため、茶色に写っています。


下の方には灯具がぶらさがっています。


灯具はすべて天井から細いワイヤを多数使ってつりさげられています。
大きいモスクの建造、ドームの明かり取りの工夫、沢山の蝋燭をつり下げるための工夫など
これらを実現するための高いエネルギーは一体何?


絨毯の上を2人の女性が巡回していました。

オスマン朝時代、ラマダンの12日目にはマホメット誕生の詩を読む儀式が行われ、
政府の高官、法官官僚らが正装して集まり、儀礼に従い指定された場所につきました。
さらに歩兵隊、騎兵隊の上層部も参加したこの式典ではモスクが溢れかえったそうです。


入ったのとは違う出口でした。

入場券

9:12 次に隣にあるアヤソフィア博物館に行きました。
916年間のキリスト教会時代、そして461年間のイスラムのモスク時代を経て
1935年以降は博物館として歴史的な役割を果たしているそうです。


入場口です。観光客でいっぱいでした。
ガイドさんの声を無線でイヤホンに伝える音声ガイドを全員がつけました。


入口を入ったところのホールです。
写真や図を使ったガイドパネルがありましたが、見ているヒマはありません。


ガイドさんはどんどん中に入っていきます。


イスラムのモスクなのに、内廊下の門の上にキリストの絵が描かれています。


内廊下の天井の模様です。

現在のアヤソフィアは、532年にそれまでの建物が焼けたため、
皇帝ユスティアヌス2世が規模を拡大し、5年間で再建したものです。


門の下の廊下は大理石ですが、今までに大勢が通ったため摩耗してでこぼこになっていると紹介されました。


ここでも最初に目に入ったのはこの灯具です。
オスマン朝のものだそうです。


つぎに上を見ると、地味ですが明るいのは大ドームです。


こちらが正面です。左のマホメットと右のアラーの大きな文字の間にも何か見えます。


そこには、キリストと聖母マリアの像が描かれています。


イスラム教の祭壇は教会の中心からメッカの方角に少しずらして設置されているそうです。


ここにも猫がいます。


2度の焼失再建、聖像破壊運動、構造上の問題や地震などでドーム破壊の復旧、
そしてイスラムモスク化と変遷を経てきた、1400年間あまりの歴史ある建物
であり、文明の十字路イスタンブールの象徴としてふさわしいと思います。


建物の外には先代の柱や柱頭などが残されています。


10:25 見学を終わり近くのエジプシャン・バザールに向かいます。

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