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第8日目午前

 10月24日  (マドリッド) マドリッド観光 プラド美術館 スペイン広場など  午後 〜バス〜 セゴビア観光【世界遺産】セゴビア城、ローマ水道橋など 〜バス〜 (マドリッド泊)     

<事前学習>
マドリードは、スペインの首都。スペインの行政の中心地(首都)であり、イベリア半島の経済の中心地の1つである。また、マドリード州の州都でもあり、マドリード県(マドリード州の唯一の県)の県都でもある。
人口は約325万人。2011年の近郊を含む都市圏人口は541万人であり、世界第57位、欧州では第5位である[2]。欧州の首都の中では最も標高が高い。
スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。
マドリードの地には先史時代から人間が住んでいた。古代ローマ時代にはコンプルトゥム(現在のアルカラ・デ・エナーレス)の司教管区に属していた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝のムハンマド1世が現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」、「水の源」の意)と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。
1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世に助言するための最初の議会(コルテス)がこの都市で開かれた。セファルディム(ユダヤ教徒)やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。エンリケ3世の時代には、都市は大火のあとに再建され、王は城壁外のエル・パルドに住んだ。(以上Wikipediaより抜粋)

セゴビアは、スペインの都市。カスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の県都である。マドリードからは87km、バリャドリッドからは111kmの位置にある。
セゴビアには古代から人が住んでおり、現在のアルカサルの位置にはケルト人の城があった。ローマ時代には、クルニアの行政区に属していた。ローマ時代には「セゴウィア」、イスラム支配期には「シクビヤー」と呼ばれたが、この名前はおそらくケルト語で「とりで」を意味する。

11世紀、カスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを征服したのち、アルフォンソ6世の娘婿ライムンド(レーモン)はセゴビアに司教座を創建し、キリスト教徒を植民させた。12世紀には内乱が起きたが、移牧のルート上にあったため羊毛や毛織物の取引が発展した。中世の終わりにセゴビアは最盛期を迎えた。ゴシック様式の建築物が建てられ、アルフォンソ10世はアルカサルを王室の宮殿に変えた。1474年12月13日にイサベル1世はセゴビアでカスティーリャ王位に就いた。(以上Wikipediaより抜粋)



マドリッド市内の信号待ちの人々



8日目ともなるといささか疲れて、今朝は食欲が今までほどはありません。


美しい朝焼けを見て、しばし疲れを忘れていました。


ホテルのロビーです。


今日はマドリッド市内観光と、約100km離れたセゴビアの観光へ往復します。


バスの窓から見えた街路樹の実です。栗のイガができそこないみたいな。何というのでしょう。


おもしろい形の傾いた建物がありました。
これはオブジェかな?


水道局なのかな。これは水のタンクで給水塔なのでしょう。


信号待ちの人たち。この時間に信号を渡ろうとしているのだから、地元の通勤の人たちでしょう。
手前の2人は、信号待ちの間に車のウィンドウを拭いてチップをもらおうと道具を持って待っています。


芝生の中に大きな手のひらの形のオブジェが立っています。


大きい交差点には銅像が建てられています。ここには騎馬像がありました。


この人は別の商売で、何かを買ってもらおうとしています。


ここの台座は立派です。一番上には女性が3人立っていました。


こんな背の高い台座の上に立つ像も交差点にありました。
コルドバやセビージャでコロンブスの何かがあるかと思っていたけど、何も見ませんでした。
ここでコロンブスの顕彰碑が出てくるとは意外でした。


マドリッド中心部の街並みです。


携帯で話しながらのビジネスマン風。


書類を抱えた作業員風。


修道院の女性とか、バスの窓から風土が見えます。


デモの警戒か、警察官が結構多かったです。


スペイン広場にやってきました。


ドン・キホーテの作者セルバンテスの
没後300年を記念して造られた広場です。
背景は別のビルです。


中心部を切り取って拡大しました。
作者と登場人物の像です。


王宮がバスの窓越しに見えました。それまであった王宮が1734年に火災で焼け、ブルボン家により再建されたもの。
約150m四方の建物に2,800もの部屋があるといいます。


プラド美術館です。


下の広場に下りるとゴヤの像がありました。
足元にあるように、裸のマハ、着衣のマハが有名で、
スペインを代表する画家です。


プラド美術館の入口です。館内は撮影禁止でした。
地元ガイドの案内で、エル・グレコの胸に手を置く騎士やベラスケスの女官たち、ゴヤの裸のマハ、
同じくカルロス4世の家族、わが子を食うサトゥルヌスなどを短時間で見ることができました。
あわただしく説明を聞いて見ただけです。ゆっくり見るためには個人旅行がいいでしょう。
ここのショップで少し土産を買いました。


今度のお買い物タイムはホテルRitzの隣にあるショップでした。


このお店ですが、買い物をする気がないのでハンドバッグとかあったようですが何の店だったか忘れました。


買い物の時間、ぶらぶらとそのあたりを歩いていたら列柱のある立派な建物の前に
誰の像かわかりませんが高い台座の上に立っていました。


顔のない人がうろうろしていました、地元の人は気にもとめませんが・・・


観光客はおどろいたように反応していました。


マドリッドでの移動はこのバスでした。


マドリッドにも凱旋門があるんですね。
と思ったらアルカラ門と呼ばれるマドリッドの入口を管理する門だったとのことです。


信号待ちで見えたマドリッドの人々。なんとなく日本よりのんびりなのがわかる?


グラン・ビアは東京なら銀座の通りだそうです。


マヨール広場は1619年にフェリッペ3世が造ったマドリッドで最古の広場です。
像はフェリッペ3世の騎馬像です。


ヤマモモの木に熊が登ろうとしている像がありました。
マドリッド市の紋章にも描かれているそうです。
これは、ここに16世紀頃まで城壁の門があり 、太陽のマークがつていたことから
プエルタ・デル・ソル(太陽の門)と呼ばれています。


変わった建物がありました。変形交差点の鋭角部分に建てられています。


デモの警備にあたっていた警官でしょうか、楽しそうに談笑していたので思わずカメラを向けました。
ところが次の瞬間、凄い形相で怒られてしまいました。スペインでは警官を撮ってはいけないのでした。


昼食の店です。扇子を見て一瞬東洋的と思いましたが、フラメンコでも使うと思い出しました。


昼食です。お腹が減ってたのか、スープのあとは撮影することを忘れ食べていました。


店のカウンターはこんなでした。夜は客が一杯になるのでしょう。


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