フ ィ レ ン ツ ェ の 歴 史

フィレンツェは古代にエトルリア人によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。

一時神聖ローマ帝国皇帝が支配したが、次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展した。
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自治都市となったフィレンツェは近郊フィエーゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃な平野全域の支配計画を進めた。
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1300 教皇派内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱がはじまった。
1302 敗れたビアンキに所属していたダンテ・アリギエーリがフィレンツェから追放される
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毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、フィレンツェはトスカーナの中心都市となり、メディチ家は金融業などで有力になり、商人と銀行家は市政の指導的な立場にたつ。
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14〜15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海を手にした。
1433 労働者と富裕階級の衝突は頂点に達し、コジモ・デ・メディチは貴族党派によってフィレンツェから追放された。
1434 コジモは復帰して敵対者を追放し、下層階級と手をむすぶことで名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。
ロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のサンドロ・ボッティチェッリや人文主義者をその周囲にあつめた。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となって学問・芸術の大輪の花が開いた。
1494 ピエロ2世はイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含むメディチ一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。
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1512 スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となった
1737年に継承者がとだえるまで、メディチ家のトスカーナ支配は続いた。
その後 18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のおさめるイタリア王国の首都となるものの、1871年首都はローマに移された。

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