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増上寺


三縁山 広度院 増上寺 浄土宗大本山 本尊阿弥陀如来
明徳4(1393)年酉誉聖聴上人により当初、江戸貝塚に創建されたが、徳川家康公の入府を受け江戸城拡張と共に、慶長3(1598)年現在の港区芝に移転された。徳川家の菩提寺。明治時代に本堂は焼失し大正時代に復興、大戦で再び焼失、昭和46年から復旧が始まり同49年に大殿、平成元年に開山堂、同13年に光摂殿が建立され、現在も宗教、文化活動の拠点として親しまれている。

増上寺パンフレットより


2005年8月1日 今日のおめあては増上寺の徳川家の墓所です。


 JR浜松町で駅を出てすぐ貿易センタービルの前を通過すると東京タワーが見え、
やがて大門が見えました。 すごいですねえ、昔の門の中を道路が通っています。


 大門をくぐり抜けると増上寺三門です。 周囲の東京タワーや近代的なビルと対照的です。


 三門に「大正大学実践仏教道場」とか「地蔵尊奉賛盆踊り」などの本日の行事が掲示してあります。
慶長16(1611)年、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭中井大和守の配下によって建立された
という三解脱門、略して三門。食欲、瞋恚(怒り)、愚痴の三悪を解脱するという。


 境内に入ると手前の方で、年配の方々が沢山スケッチブックを広げているのに出会いました。


 左に手水舎がありました。
 これは家光公の三男のご霊屋にあったものだそうです。


 右手には鐘楼がありました。
 この鐘は将軍徳川家綱の命により、延宝元(1673)年品川御殿山で鋳造されました。


 大殿の前の広場には、先にあったように盆踊りの準備ができていました。今夜はにぎやかになりそう。


 大殿の額です。


 中の仏壇です。


 大殿の右隣にあった安国殿。家康公の法名が安国院殿なので。


安国殿の後ろに回ると徳川家墓所の入り口である「鋳抜門」です。増上寺は戦災で焼けた
のですが、それまで広大な敷地にいくつもの壮麗な霊屋の中に分かれて祀られていました。
しかし、霊屋が焼け落ちてしまったので増上寺復興の際に一カ所にまとめて改葬されたよう
です。この門は六代家宣公の廟の門だったそうです。宝塔(墓の上の部分)自体は木製、
石、青銅とさまざまで、将軍のものは当時の芸術の粋をこらしたような木製のものが多かっ
たのですが焼けてしまいましたので、妻の宝塔に一緒に祀られているようです。

 
 「鋳抜門」の両脇にある彫刻。昇龍と降龍のみごとな彫刻。
この2枚の間に菊の紋章がたくさん彫り込まれた門がありました。


 鉄門は閉じられていて入れません。そこで、大変失礼ながら隣の墓地から塀越しにのぞくと
木の間から一部の墓が見えました。
 左方の墓は第14代の家茂公の墓です。
 ここに葬られているのは二代秀忠公夫妻、六代家宣公夫妻、七代家継公、九代家重公、
十二代家慶公、十四代家茂公、静寛院和宮、将軍生母側室等です。


増上寺旧方丈門(黒門)を通って帰りました。


野閑人からのメールです。

 徳川家墓所は何箇所かあるが、徳川将軍十五代の内、数多く葬られておるのは、

芝増上寺と上野寛永寺じゃね。五代までは記憶しておるが(間違うちょったらごめん)、

初代家康は最初は久能山に葬られたが、二代秀忠の時に上野東照宮に分祀され、

更に三代家光の時に日光東照宮に分祀された。

 二代秀忠は増上寺、三代家光(大猶院)は日光輪王寺、四代家綱は上野寛永寺、

五代綱吉(常憲院)も上野寛永寺。

 家光は親父の秀忠を嫌っておったので、遺言で増上寺には入らなかった。

 寛永時墓地は、風呂岩、ツルと一緒にたんねたことがあるが、

常憲院廟(綱吉)も家綱廟も、ほらあ立派なもんじゃった。

寛永寺墓地も一度たんねてみたらどうぞね。hi

今回、上野にも行こうとしたのですが、時間がなくなってしまいました。次回には行きたいです。

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