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内子町伝統的建造物群保存地区


2005年9月17日(土) 高知を10時過ぎに発ち、伊野から自動車道に入り須崎まで走りました。葉山と東津野が合併してできた津野町を通過、檮原町も新しいトンネルを抜け調子よく通過しました。197号線はその昔にはイクナ線と呼ばれ、悪路で有名でしたが、今は快調に走る事ができるいい道路になりました。大洲の手前で県道229号線に入り国道56号線に出て内子方面に向かいます。


伊予銀行のすぐ上からゆるやかな坂の町、八日市地区が
始まります。


上がり始めて間もなく右手奥に大正時代の活動写真の旧旭館
がありました。
やっと建っている感じで、ここに手を入れて活動写真の展示館に
したらいいのにと思いました。


こういう感じの昔の商家がずっと続いている町並みが始
まります。


通りの途中で筋違いになった場所に内子町の建てた案内板
があり、以下のように説明されていました。

 国選定・重要伝統的建造物群保存地区
  内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区

   選定年月日  昭和57年4月17日
   面    積  約3.5ヘクタール

 内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた。肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
 八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。
 内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。

   昭和58年3月

                愛媛県内子町 

 元は成願寺の門前町ですが、江戸時代は和紙の出荷、明治時代は木蝋の出荷で日本の十指に入る財閥である芳我家を生んだようです。
 中芳我家のご当主に声をかけお聞きしたところでは、芳我家は源氏の流れを汲む関東武士の芳賀氏だそうで、愛媛に来てから「賀」を「我」に変えて平山城主芳我氏となり、現在があるようです。
 本芳我家、上芳我、中芳我、下芳我、東芳我、西芳我、南芳我、沖芳我、秀芳我、油芳我、文芳我、東京芳我、芳我医院などと分家したいへん繁盛したようです。


修復中の本芳我家住宅です。約3年をかけての修復工事です。


工事現場に掲示されていた本芳我家住宅のようすです。


工事中の本芳我家住宅の右隣にある御成門と立派な庭園です。


少し上に坂を上ると上芳我邸が資料館となっています。


「うだつ」や「水切り屋根」などの、さまざまな工夫を凝らした建築です。


邸前には季節の生け花が飾ってありました。


中芳我家の商家二階の意匠には「龍」の文字が。


 そして住居の玄関が開いていて、向こう側には住宅があり現在も
ご当主が住んでおられ、その庭を観光客に開放していました。


木蝋を使って今も和蝋燭を作っている大森和蝋燭屋さんです。


材料は秋になると赤く紅葉するハゼの実です。


灯心の材料です。


溶けた熱い蝋を灯心の周囲に、まるでバウムクーヘンのように素手で塗り重ねていきます。


製品を並べた商品棚です。いろんな用途にさまざまな蝋燭があります。

その他、気にいった建物を採集?してきましたのでご覧ください。

左右対称かな?と思ったけれど対象ではないようです。


民芸品屋さん


こじんまりした商家ですね。


窓枠が強調されています。


繊細な格子です。


しっかりと隣同士が「うだつ」で仕切られています。


黄色味を帯びた漆喰とその向こうの屋根の妻壁には家紋が浮き出していました。


 下の通りにおりて食事をしたのが、この下芳我邸の左部分
で営業している洋食屋マザーで、オムライス、チキンカツ、ス
ープのセットで1,050円。おいしかったですよ。
 ちなみに右半分は蕎麦屋さんになっていました。


少し離れた場所にある内子座です。
大正5年に大正天皇即位の大典を記念して建てられた
歌舞伎劇場です。回り舞台や花道も整っています。
ここに至るまでは映画館としてあるいは商工会館として
転用されていましたが、昭和50年代からの保全運動の
一環として、三カ年の工期と7,000万円の事業費をかけて
昭和60年に復元完成したものだそうです。


 こういった古いものを文化遺産として大切にしていこうとしている人たちがいることは、私の住んでいる高知市にとって、古いものを壊し新しいものを建てることに熱心な高知市にとって大変参考になるものではないでしょうか。高知空襲でほとんどの建物が焼失した高知市は、かろうじて残っているさまざまな文化遺産の価値を認め、もっと大切にしないといけないと思います。

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