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三陸海岸


2011年3月11日の大震災から丸2年過ぎ、今まで様々な都合で行けなかった復興中の三陸海岸に、友人たちの協力を得てやっと行くことができました。

三陸海岸は、
(1)岩手県から宮城県にかけて南北180kmにわたって続く、日本を代表するリアス式海岸です。
(2)世界四大漁場と呼ばれるほど豊かな漁場が広がっています。寒流の親潮と暖流の黒潮が三陸沖でぶつかり、多くの魚が集まってくるのです。
(3)海岸の断崖絶壁は、ミサゴ、ウミウ、ウミネコ等の野鳥の格好の繁殖地ともなっています。
(4)八戸から宮古までは隆起海岸(海蝕段丘)、宮古から大船渡までは沈水海岸(典型的リアス式海岸)、大船渡から牡鹿半島までは沈水海岸(細かなリアス式海岸)

2013年5月15日(水) 遠野市小友町で宿泊させてもらった友人の案内で典型的リアス式海岸とされる中の釜石から大船渡、陸前高田まで車で走りました。


経路図


山から下りてくると、とても大きい工場がありました。釜石と言えば鉄とラグビーの「新日鉄釜石」です。


釜石駅前には近代製鉄の父といわれる大島高任の銅像がしっかり立っていた。
南部藩士の大島は1857年西洋式の高炉での製鉄に成功していたのです。
このあたりは1m程度の浸水だったと聞きました。それでも工場は被害を受け、
短期間ですが生産がストップしたようです。


北の峠に上がる途中には、仮設の住宅が建ち並んでいました。


両石(りょういし)、鵜住居(うのすまい)と被害状況を見ながら走りました。
既に住宅や店舗などの残骸は取り払われて、基礎部分や鉄骨だけが残っています。


黄色い菜の花のような花があちこちに咲いていました。


JR山田線の鵜住居駅です。中央はホームの跡で、枕木もレールも流され路盤だけになっています。


鵜住居保育園の跡です。園児たちが遊んでいたであろう玩具が置かれていました。


電柱ばかりが目立つ、空っぽになった土地の向こうには、皮肉にも津波を逃れた墓地が見えました。


両石に戻りました。壊れた防潮堤が見えます。ゲートは残っていますが、その右方から先はありません。


神社が高い場所にありました。そこに至る階段状の場所にはそれぞれ民家があったのでしょう。
古い神社やお寺は昔からの言い伝えを守り、それなりの高い場所に建てられていて無事だったようです。


しかし、そこに至る階段(前の画像の中央部)にまで津波が押し寄せたようで、手すりがゆがみ、
コンクリート擁壁にはいくつかの擦り傷がついていました。


津波の力の強さを物語る遺物を見つけました。二つに折れた電柱と基礎から抜けた街路灯のポールです。


平田総合公園にも仮設住宅が建てられていました。上の段にもありました。


小高い場所にあった唐丹(からに)駅はどうやら助かったようです。


しかし、数十メートル先の線路ははぎ取られ、トンネルにつながる橋も流されて現在も復旧中です。


駅前に建てられた新しい津波到達地の碑です。


その上の山は何も知らぬげに、今、長い冬が終わりパステルカラーの春真っ盛りでした。


狭い湾の奥にある集落を守る防潮堤は破壊され、水門だけが立っていました。
でも今、左側の部分では着実に復旧工事が進んでいました。


海辺の近くに美容室、理髪店や釣り具店、タバコ屋、食堂などの仮設の商店街がありました。
私たちは「三平」という店で遅い昼食をとりましたが、店内にはタレントのサイン色紙が貼られていました。
駐まっている車を見ても分かるように、復旧工事などに携わっている人たちのためのオアシスです。


車を進めていると、堤防の被害が生々しく見える場所に出会いました。
こんなにもこなごなになるものだと、現場に立ってまざまざと津波の水の恐ろしい力を感じました。


さらに進むと峠から次の湾が見通せる場所がありました。今は美しい風景です。
津波は幅が次第に狭くなると同時に高さを増して湾奥の防潮堤を突き破り集落を襲ったのです。


結構高い峠と思われる場所に、明治三陸大津浪の到達標識がありました。
38.2mの高さまで津波が押し寄せたというものです。


近くには平成10年に建てられた「明治三陸大津波伝承碑」がありました。
3.11までに地震の後はすぐ逃げるという意識は高まっていたのでしょうか。

         明 治 三 陸 大 津 波 伝 承 碑

「明治29年6月15日(旧暦5月5日)午後8時7分頃襲来。綾里村は被害戸数296戸
溺死1350人を数え、この地にて本州津波史上最高の38.2mの波高を記録する。
『白浜は真口の太平洋に直面せるをもって水勢を遮る何物もなきによるべく、野を
越え山を走りて道合に至り両湾の海水連絡をせるに至る。所謂水合か』(綾里村誌)
 綾里村の惨状
「綾里村の如き水死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。
村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず。」(岩
手県知事より内務大臣への報告)
 その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。暁暮帰潮に逳りて湾上に
揚がるもの数十日。親の屍にすがりて悲しむものあり、子の骸を抱き慟哭するものあり。
多くは死体変化し、父子だも尚その容貌を弁ずる能わざるに至る。頭足、所を異にする
に至りては惨の最も惨たるものなり。」(綾里村誌)

                   平成10年6月15日 
        綾里地区消防100周年記念事業実行委員会 建立
 


綾里(りょうり)中学校の校庭にも多くの仮設住宅が建っていました。


時はめぐりまた春が来て♪、桜並木は美しく暖かい。


車は大船渡の対岸、赤崎小、中学校跡のがれき集積場にやってきました。


がれきの山の向こうに見える煙突は、太平洋セメントの工場が盛んに稼働しているのです。


大船渡です。被害を受けた建物がかなりあります。何も無いところはすっかり流されたか
瓦礫が片付けられたところでしょう。
港の近くには被害を受けたビルなども多くありましたが車を駐める余裕がありませんでした。


湾を見下ろすと養殖の生け簀の浮きが見え、これはかなり復旧したなと思いました。


小高いところにある陸前高田の小友小学校です。この校舎の床すれすれまで津波が来たそうです。


この先はもっと低い土地がずっと続きます。ここにもJRの駅があり、郵便局や集落があった
そうですが、左方向からと右方向からの両方の津波に襲われて流されてしまったのだそうです。


未だに水が引いていません。


汚泥の集積処理場でしょうか。津波は黒い汚泥を置いて行きました。


6mぐらいの高さで折れた松の木に何か引っかかっています。


正体はカキの養殖カゴでした。
浮きの下にぶらさがっているものですから、これ以上の高い水位だったことが実感できるものでした。


4階まで津波が突き抜けた雇用促進住宅です。


周囲の悲惨な状況の中で、チューリップの鮮やかな花が咲いていました。


ガソリンスタンドが営業再開していました。
復興が遅いといわれますが、この大規模な被害状況の中、少しずつ前に進んでいます。
どういう復興をするか、津波伝承碑は何を語っていたのか考えていきたいです。


高田松原の道の駅があった場所を最後に通りました。助手席はずっと案内してくれた友人です。

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