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勝海舟邸跡


2007年2月23日 坂本龍馬の生き方を大きく変えた勝海舟の住居跡を訪れました。


 警視庁赤坂警察署赤坂五丁目交番と書いてあります。


交番から反対側に進み、左に曲がると何の変哲もない
通りがあります。


反対側を見てもそれらしい感じはありません。


T字路の角に白いビルがあります。
このあたりはアパート、マンションが多いようです。


 白いビルにはひさしがあり、上に上がる階段があります。
 そして壁面には光るパネルが・・・。その上には小さな杭のようなものが・・・。


近付いてみると「勝海舟邸跡」の文字がありました。
杭が小さすぎるって!
その下で銀色に光っていた「勝海舟邸跡の記」から

 港区赤坂六丁目十番三十九号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、
幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の十年間が最も華々しく活躍した
時期に当たる。
 海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。
夫人は民子。
 海舟は文政六年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国四丁目の両国公園の地=
で、貧しい御家人の子として出生。
 長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂二丁目の赤坂ツインタワービルや
衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚二十三歳で赤坂田町
中通り=現赤坂三丁目十三番二号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 三十六歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年(1872)
再び上京し、満七十六歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地=現赤坂六丁目六番十四号=に
住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。
 この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使わ
れた。
 当初に住み始めた翌年の安政七年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として上司の
軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使のの外国奉行新見豊前守を乗せた
米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。

 文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を
説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与え
ることになったのもこの場所である。
 明治元年三月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷
隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第一回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪三丁目の
ホテルパシフィックの地=で行われた。第二回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、
現港区芝五丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の
裏側にある民家=現港区芝五丁目の三菱自動車ビル周辺=まで行われたとの両説がある。い
ずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年五月、海舟の留守中に、一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、
海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞恵(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急
を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木一丁目に、
次いで洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されて
いる。
 平成七年十一月吉日
     ソフトタウン赤坂管理自治会
     撰文 伊波 新之介
     協賛 勝海舟顕彰会
     協力 港区郷土資料館

この後、勝海舟と少し関わりのある近所の「氷川神社」を訪れました。

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