よいよい写真館番外編>寛永寺

寛 永 寺

 江戸末期までの寛永寺は、今の上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい偉容を誇っていました。



2006年12月11日朝です。
ビルの隙間から朝焼けの品川の海が見えます。


東京駅を過ぎ上野駅を過ぎると鶯谷駅です。
美しい日本画を思い浮かべそうな風流な駅名ですね。
それもそのはず、江戸時代に京都から鶯を運び、放したといいます。


駅からの出口を間違えて下側に下りてしまいました。
美しい駅名とは裏腹に駅裏にはぎっしりとラブホテルが・・・
江戸時代から多くの文人が住んでいたといわれる根岸です。
駅東の陸橋を渡り学校横を通り、右に曲がると国立博物館の裏になります。
右側は既に寛永寺の墓地なので、そのまま進み寛永寺に向かいます。


徳川家の墓所を護る門でしょうか、右側に屋根だけが見えました。
墓地の周囲が工事用の背丈ほどの高いパネルで覆われていて中は見えません。
そのまま進むと上野中学校があり、右隣の通用門を入ると寛永寺です。


寛永寺根本中堂です。左角にあった説明板には次のように書かれていました。

 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶應4(1868)年彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9(1876)年から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15(1638)年の建設といわれる。
 間口・奥行ともに7間(17.4メートル)。前面に3間の向拝と5段の木階、背面には1間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。



ここで美しい紅葉を見ることができました。
石碑は「上野戦争碑記」です。


鐘楼です。
境内には幼稚園がありました。


江戸開府400年記念の立派な案内板が設置されていました。
これによると、

 元和8年(1622)徳川幕府二代将軍秀忠が上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、今の上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい偉容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。


徳川家の墓所の内、将軍の墓が見られるのはここだけでした。
東京都史跡となっている徳川慶喜公の墓所です。


土饅頭型の周囲を石で固めた墓がふたつ並んでいました。
左が慶喜公の墓で、右は奥さんでした。


徳川慶喜公の墓
徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後見職として
将軍家茂を補佐した。慶応2年(1866)第十五代将軍職を継いだが、翌年大政を奉還、慶応4年
(1868)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡した。その後駿府に隠棲し、
大正2年(1913)11月22日に没した。

 
寛永寺墓地は都立谷中霊園、天王寺墓地と入り組んで存在しています。
この谷中霊園は神仏分離令の後、墓地不足に困った東京都が天王寺の敷地を取り上げ、明治7年9月に谷中墓地として開設したそうです。


霊園の中央には今は公園となっていますが天王寺五重塔跡があり、またその前の中央通りは桜並木となっています。


谷中霊園には有名人の墓がいくつかありました。
これは政界の著名人鳩山一郎の墓です。


高知県宿毛市の出身の小野梓です。


鳩山氏のすぐ隣には日本画家の横山大観が眠っていました。


霊園事務所近くにはオッペケペーで有名な川上音次郎の風変わりな
墓がありました。彼についての演劇などは見たことがありますが
遠い存在でした。この墓を見てなんだか身近な感じを受けました。


宇和島藩主伊達宗城公の墓


高松藩主松平家の墓所


高知県出身の政治家馬場辰猪&英文学者馬場弧蝶


墓の裏から1匹のきれいな白猫が様子をうかがっていました。
この他にも獅子文六や出羽の海、矢田部良吉、長谷川一夫
高知出身の小野梓などの墓もありました。
後でわかったことですが高知出身の牧野富太郎もこの谷中に眠っているそうです。

 
再び徳川家の墓所の一部に行き当たりました。
左の墓は「俊徳院殿」とありましたから、ネットで検索するとこれは徳川家御三卿のうち
清水家初代の重好であり、隣には「貞章院殿」とあり、重好の妻の田鶴宮貞子ということがわかりました。
重好は九代将軍家重の二男ということです。


徳川家墓所の高いパネルで囲われた内部が一部見えました。
灯籠や墓石が一部に立っていますが、ほとんど荒涼とした空き地です。
東京空襲の被害をこれから元通りに復元していくのでしょうか。


広い谷中霊園を、管理事務所でいただいた地図を頼りに
ぐるぐる歩き回ったので、足が棒になりました。
これから寛永寺に戻り、上野東照宮に向かいます。
ここでは様々な人々の存在したことを、その墓を見て改めて感じました。

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