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広島平和公園


2005年9月28日 広島平和公園を訪れました。

 この公園は、唯一の原子爆弾の被爆国として国際的に核武装に反対し、悲惨な戦争を防ぎ、また、被爆者の霊を慰めるための施設です。
 ここを訪れる人は増えてきていたのですが、1991年をピークに減少に転じています。しかし、外国人の訪問者は増加しているそうです。


1945年8月6日の被爆のシンボルである、今も地面に瓦礫が残る「原爆ドーム」


このビルの上空で原爆が爆発しました。


そのため初めは上からの爆風で痛めつけられ、次は上への
反動気流で屋根と床が引き剥がされ、壁だけが残りました。


対岸から見た原爆ドームです。

 
被爆した相生橋の欄干の親柱と現在の相生橋。
ひどい被害を受けたものの修理されて昭和58(1983)年まで使われていたそうです。
相生橋は昭和7(1932)年に架けられたT字型の珍しい橋です。
原子爆弾を落としたアメリカ軍の爆撃機「エノラゲイ」は上空から確認しやすいこの橋を目標に原爆を落としました。


原爆の爆発時刻8:15にチャイムが鳴る「平和の時計塔」


昭和30(1955)年の秋、被爆後10年経って、佐々木禎子さんという少女が亜急性リンパ腺白血病で亡くなりました。
これをきっかけに広島の子ども達が原爆の犠牲者を慰め、世界平和を訴えるために呼びかけた結果、このモニュメントができたそうです。


この日も百名を超える中学生の団体が、被害者の魂を慰め平和を祈るため千羽鶴を奉納する集会をしていました。


「原爆供養塔」には名前も性別もわからない7万柱の遺骨が眠っています。

 
「原爆慰霊碑」
「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」と書かれた石棺には、姓名の判明した被爆死没者約10万柱の過去帳が収められています。
ここは被爆前には約5,000人が住んでいたり働きに来たりした繁華な町だったのですが、一瞬にしてその命が町ごと消え去ってしまいました。


「平和記念資料館」には未来永劫伝えて行かなくてはなら
ない、たくさんの被爆を証言するものが展示されています。

 
資料館地下では資料館の開館50周年を記念し、被爆者の描いた生々しい体験図絵などの展示がありました。

 
「被爆アオギリ」
被爆後にまず芽を出したのがクスノキで、花を咲かせたのがキョウチクトウで、それぞれが広島県の県木、県花となっています。
このアオギリも被爆し幹は黒こげになりましたが、芽を出しやがて焦げた部分を新しい皮が包み込むようにして生きています。
何十年も植物は育たないといわれていたのに、このような生命力のある様子を見て広島の人たちは大変元気づけられたそうです。


「峠三吉 詩碑」(「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ・・・・)
28歳の時に被爆した峠三吉は、その後、文学の活動を通して反戦・平和、人間の尊厳を守ることを訴えました。


「マルセル・ジュノー博士の碑」
昭和23(1945)年8月9日赤十字国際委員会の主席代表として来日し、
米軍の抵抗にもかかわらず被害状況を国際的に発表し、支援を呼びかけました。
その結果大量の医薬品が送られ、特にペニシリンが多くの人々の命を救いました。


川の堤防にある「がんぎ」には燃えさかる火から逃れる人々が
殺到し、折り重なって倒れ込み、亡くなる人もいたそうです。


元安橋の欄干を支えていた柱。
接続していた欄干の部分を除いた部分が被爆の猛烈な熱で変成を受けました。

 
「原爆犠牲 ヒロシマの碑」
高校生の自主グループ「平和ゼミナール」が呼びかけ、原爆瓦をモニュメントにした平和記念碑ができました。
四角の部分には拾い集められた原爆瓦(原爆の熱で瓦の表面が泡立ったもの)が貼り付けられていて次の詩がありました。

「天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた
 ヒロシマの 叫びを ともに 世界の人よ」


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