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伊予伊達藩主墓所等


2005年9月17日 愛媛県の内子町、宇和島市などを散策しました。

 内子から宇和島へは松山道、大洲道路、松山道と乗り継いで来ました。ここも一度来た事があるという軽い考えで下調べもせず来たのでした。
 時間がないので一般道を避けて、少し早く宇和島に入ったのですが、ここでも大通りには伊達博物館の案内が見つからないので困りました。
 駅前に行き、市役所前に行きしたのですが、案内板を見つけられず、ついに電話したのですが、方角しか伝えていただけず、でもなんとかたどりつき、直近の交差点に案内板を見つけたときはほっとしました。


 宇和島市立「伊達博物館」の入り口です。時刻は午後4時
ごろです。
 閉館まで1時間しかありません。一通り見て回り、菩提寺の
位置を訪ねて飛び出しました。


 1階の展示のようすです。
 3階まで(中2階を含む2階建てか?)あり、伊達家の宝物資料館となっています。受付で入場料を支払って展示室にはいると、保存のためかずいぶん照明の明るさを落としていて、夕方で外もあまり明るくないのにしばらく目が慣れませんでした。その中で鎧兜がずらっと並んで照明に浮かび上がっていて、壮観でした。代々の鎧兜が揃っていましたが、残念ながら刀剣類は脇差しが一振りだけでした。また、日の丸そっくりの旗が伊達藩で使われていたようで、不思議でした。
 上の階には客膳用の食器や藩主夫人の使う、工芸的に美しい道具などもありました。高知なら内容的には土佐山内家宝物資料館というところでしょうか。でも、伊達博物館の方が展示スペースが広くてゆとりがあります。
 土佐山内家宝物資料館も展示物はたくさんできたのだから、もっとゆとりのある常設展示スペースを構えないといけませんね。


「我が祖先は 奥の最上や 天の川」

松根東洋城(豊次郎)という宇和島出身の書で、松根邸跡に
あったものを遺族の願いでここに移転したとあります。松根家は
伊達家の家臣で由緒ある家柄ですが、特に祖父松根図書は
明治維新にあたり執政として土佐の後藤象二郎等と共に大政
奉還の王事に奔走した伊達藩の中心人物だったようです。


伊達博物館から見えた宇和島城です。

博物館でいただいた地図を参照しながら車で移動しましたが、ひとつ曲がり角を間違えて、またまた悪戦苦闘しながらたどりついた墓所です。
お寺に着いたときには、ピンク色の沈む前の夕日が見えました。
午後6時前でしたから山門は閉じていますが、横に墓地専用の入り口がありました。

県・市指定史跡 
宇和島藩主伊達家墓所(金剛山大隆寺)

 宇和島藩初代藩主伊達秀宗は天正19(1591)年戦国の雄、仙台藩主伊達政宗の長子として生まれました。4歳の時秀吉の人質となり、秀吉の死後、関ヶ原の合戦で政権が徳川氏に移るとその人質になるなど苦労を重ねました。慶長19(1614)年大坂冬の陣に徳川方として父、政宗と共に従軍し、その功績により宇和島10万石を拝領しました。
 以来、当藩は維新に至るまで、およそ260年の間、9代にわたって伊達藩政が続きました。この寺には初代藩主夫人・亀、五代藩主・村侯、七代藩主・宗紀、九代藩主・宗徳公等の墓があり、初代、二代、三代、四代、六代、八代藩主等の墓は竜華山等覚寺(市内野川・徒歩約10分)にあります。

(墓地入り口の説明板より)

 江戸時代になって伊達氏が入る前は富田氏が領主でした。富田氏がこの寺を創建した当時は金剛山正眼院でした。
 伊達氏が入城してから菩提寺とし金剛山大隆寺と改めました。

宇和島伊達家略系図
 仙台藩祖 初代 二代 三代 四代 五代 六代 七代 八代 九代 十代 十一代 十二代
 伊達政宗 - 秀宗 - 宗利 - 宗贇 - 村年 - 村候 - 村壽 - 宗紀 - 宗城 - 宗徳 - 宗陳 - 宗彰 - 宗禮 ひでむね とし よし とし とき なが ただ なり え のぶ あき のり                                     (九代までが藩主)


「松根首塚」ですが、どういうものか不明。
と書いていたら、「伊予の良い男」さんから昔からの
言われについて掲示板に書き込みがありました。
「伊予の良い男」さん、ありがとうございました。下に掲載します。

 松根家は宇和島伊達家の重臣として栄え、明治期には子規の門下となった俳人(松根東洋城)を出しています。
 昔、松根の先祖(出羽最上藩の人)が深夜城下を歩いておりますと1件の家の回りを人魂が飛び回っているのに出会います。と見ているとやにわに幽霊が現れ、松根に向かって「この家の主は私の仇である。無念にもこのような姿になったうえこの家に魔除けの札が張ってあり家内に入って仇を討ち果たすことができない。この札を剥がしていただければ本懐を遂げられるのでなにとぞお聞き届けいただきたい。」と種々因縁を述べながら懇願するので松根は哀れを催し札を剥がしてやります。
札がはがれた途端幽霊はかの家に飛び入り家内ですさまじい悲鳴の後幽霊は仇の生首を咥えて松根の前に現れ「このような身でお礼の仕様も無い。その志としてこの生首を貴殿に献上したいがお受けいただけるか。」と申しますので松根は是非に及ばずとこれを受け取ります。
松根はこの生首を戦場の旗指物に描き、以後この物語と旗指物は「松根の生首」として有名になります。この旗指物は宇和島に伝来され今も保存されているはずです。
 現代感覚で生首を礼に貰うなど理解できないかもしれませんが、当時の武士の豪胆さを表すものとご理解下さい。
 なお、伊達家の家中には政宗公の父輝宗公のご正室が出羽最上家の出であるためか最上家に仕えた家系の侍が多いようです。


入り口に一番近い初代藩主秀宗夫人・亀の墓で、大きく立派な五輪塔です。


七代藩主宗紀公の墓所です。


宗紀公夫妻の墓は分厚い石塔です。
デジカメの手ぶれ注意表示が点滅し始めました。
もうほかのお墓には行く時間がありません。急いで初代の墓のある等覚寺に行かなくては。


夕暮れ迫る竜華山等覚寺です。
門は既に閉じていますので墓地専用入り口から入ります。


伊予初代伊達秀宗の墓です。
デジカメの手ぶれ注意表示が点滅しっぱなしです。
門柱にカメラを押しつけながらようやく撮影できました。


天下の四賢侯のひとりの八代宗城(むねなり)公の墓ですが、
午後7時も過ぎ夕闇迫り絶対的に光量不足で、地面にカメラを
置いて撮影してもカメラの感度の限界です。

海外情勢文化に強い関心を抱き、高野長英、村田蔵六(大村益次郎)らを
迎え、蘭学の研究、砲台の設計、蒸気船の建造などを実施したようです。
また、国事に参加し、国家政治基盤の確立に大きく貢献したといいます。
こうしてお墓に向かっていると、これらの人々が200年前とか300年前に
確かに存在してそれぞれの仕事をしていたんだなあという実感がわいてきます。
これ以上はあきらめて、安らかにお休みいただくようお祈りして帰ってきました。
今回は、なぜ仙台の伊達氏がお隣の宇和島に来ていたのかがわかりました。

須崎に着いたのは午後9時半頃で、道の駅近くのレストランで遅い夕食をした
のですがオーダーストップまであと10分でした。でも、キャベツのおかわりもでき
おいしいトンカツ定食でした。

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